学校教育研究科道徳教育専攻 教員リレーエッセイ連載(第9回)
2017.10.26

道徳教育を担うということ

麗澤大学 准教授 江島 顕一

 

本学に着任以来、建学以来(1935年)の最古の科目である「道徳科学」という必修の授業を受け持っている。また、教職課程を担当し、「道徳教育の研究」という授業を受け持っている。

つまり私は、一方で入学して来たばかりの大学生に道徳を教えながら(年間30回)、他方で教員を目指す学生に道徳の指導法を教えている。道徳教育を研究する一大学教員として大変恵まれた環境に身を置いていると思っている。

しかし、前者の大学生に道徳を教えることについては、今日まで試行錯誤を重ね、そして今なお悩みや迷いが尽きない。

すなわち、自分のような不道徳(非道徳)な人間が道徳など教えられるのか、あるいは教えていいのか、ということである。

日本教育史という学問領域を専門としていることもあって、こうした自らの問いを過去の先人たちに尋ねてみることにした。しかし、先人の言葉は予想に反して非常に厳しかった。

例えば、大正期に隆盛した新教育運動の担い手であり、「合科学習」を主唱しながら、修身の教授改革を提起した奈良女子高等師範学校付属小学校の主事であった木下竹次(1872—1946)は次のような言葉を残している。

 

  修養は学習者自身の仕事であるけれども、修養に優秀な指導者のあることは特に大切である。自分の修養は一向に之を顧みないで、徒に修身教授を実行して居るのは無頓着に過ぎるが、自分はとても道徳の師と為ることが出来ないと卑屈退嬰の精神を起すのは思慮が余りに浅いと云はねばならぬ。(『学習各論』上巻、目黒書店、1926年、481-482頁)

 

私は問い返してみたくなった。それでは道徳的な人間でなければ、道徳を教えることはできないのか、と。教師とて聖人君子ではない。失敗や間違いもある。それは許されないのかと。常に正しくなければ教壇に立つ資格はないのかと。

木下は続けて次のような言葉を残している。


  吾々は誠実を以て人生に処することは出来る。又誠実を以て学習者に対することも出来る。強烈なる求道心も持ち得る。現在は不完全であるが、今後に於て発展することは出来る。道徳は何人も実行の出来るものである。道徳に不可能底の要求は無い筈である。学習者と共に自分も修養せうと痛切に念ずれば、其処に修養指導の教師たる資格は具備する。教師は修養の師となることが出来ると先づ自分が自分を信ぜねばならぬ。(同上、482頁)

 

こうした先人の言葉を学びながら、自問自答を繰り返してきた、現時点での私の回答はこうである。

道徳的でなければならないのではなく、道徳的であろうとする教師に、道徳を教える資格は具備する。

教師という存在は、must be ではなく、want to be であることが大切なのではないかと。

 

少なくとも私は道徳的な人間とは言い難いが、道徳的であろうと志向している人間ではある。

そうした私の考えや思いに、これまで出会った学生たちは真摯に耳を傾け、真剣に向き合ってくれてきた。

 

これからもこの問いは私が教壇に立つ限り、絶えず考え続けなくてはならないものであると思う。

道徳教育を担うということは、教師としての自らの在り方を常に問い直していくということに他ならないと考えている。