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救済活動家

救済活動家 廣池千九郎

廣池は学者としての幅広い活動と数々の実績が認められ、『古事類苑』の完成後直ちに、伊勢にある、当時官立であった神宮皇 学館(大学)から教授として招かれ、「神道史」、「宗教史」、「東洋法制史」などの講義を担当します。さらに明治41年(1908年)には東洋法制史研究 のため中国に旅行します。帰国後、恩師の穂積陳重らのすすめにより学位論文の執筆に精根を傾け、明治43年(1910年)に『中国古代親族法の研究』と題 する論文を完成し、東京帝国大学に提出。大正元年(1912年)に法学博士の学位を授与(当時は文部省より)されました。これにより廣池は学者としての地 位を不動なものにします。その後、廣池の研究は法制史の枠を超え、究極のテーマである国体つまり日本のアイデンティティの研究へと傾倒してゆき、『伊勢神 宮と我国体』、『日本憲法淵源諭』等を出版します。この研究が基礎となり、後年『道徳科学の論文』の発表へとつながっていきます。

廣池千九郎は大分県中津市で教鞭をとるかたわら、教育の改善にも取り組み、教師の生活保障・改善のため大分県教員互助会設 立に向け尽力し、その甲斐あって明治24年には(1891年)「大分県共立教育会」の中に、目本最初の教員互助会が設立されました。また、明治22年 (1889年)に起きた日田、玖珠、下毛三郡の大洪水の際には、新聞社の依託をうけ、被災者の義捐(援助)金を募ることに奔走し、明治25年(1892 年)の下毛郡宮永村大火の際にも、近辺の町村に救済を要請する檄文を送り、援助金募集活動に乗り出しています。

その後廣池千九郎は学者への道を歩み、研究活動に専念します。神道史研究の過程で現代神道の一教派である天理教を調査した ことがきっかけとなり、天理教本部から三教会同に関する講演の依頼を受けて、以後全国各地で講演活動を展開します。この講演を契機に当時各地で起きていた 労働問題解決にも尽力し、明治43年(1910年)より、三重紡績会社(現東洋紡績津工場)をはじめ富士瓦斯紡績会社、三越百貨店、内外通運(現日本通 運)等で労働者に対して講演を行う一方、実業家、政治家、軍人等が中心となって結成された「帰一協会」、「日本海員掖済会」、「日本工業倶楽部」でもたび たび講演し、実業家、政治家などに対する重大な警告として日本憲法淵源論」を再刊、『富豪、資本家、会社・商店の経営者、重役、高級職員各位並に官憲に稟 告』を発行する等、労働問題の重要性を指摘し、道徳的解決に取り組んでいます。そして、同時に国際紛争の解決に向けても尽力しています。特に昭和初期から 始まる軍部の中国大陸進出に際しては、政府、軍部の要人に対して積極的に働きかけ、軍事的な行動を諌め、提言を行っています。また、当時侍従長であった鈴 木貫太郎海軍大将宛に戦争回避を提言する書簡をたびたび出し、平和に向けての日本の速やかな対応を要請しています。