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留学生現地レポート

ドイツ

ロストック大学

拠り所

ドイツ語・ドイツ文化専攻3年 赤羽 虹咲
2018/03/07
  留学期間が半分を切り、私はロストックでの生活が違和感なく送れている。一月から三月にかけてドイツ国内の大学ではあらゆる授業でテストが行われており、ここロストックも例外ではない。その為、多くの学生が自宅や寮にいることが多いため、この時期は外に出かけるよりも施設内にいる方が交流することが出来る。今回はそこで新しく知ったこと、学んだこと、感じたことを書いていく。
 ≪留学≫
  最近私は、友達の紹介で知り合った日本に留学経験のあるドイツ人と留学について話し合った。その人は長期にわたり、日本にある幾つかの有名大学に留学をしており、その留学の経験で学んだこと、気づいたことを真摯に話してくれた。留学をしている最中に共通で起きる問題があり、それは交流だそうだ。「どこの大学にいっても、留学生とその大学の生徒と交流関係は希薄であり、そのため、留学生は留学生同士しか交流していない。交流の場はあっても、上手く機能しているのはごく僅かだった。」と言う。何故、そのような現状なのか。大きな理由の一つとして、お互いが受け身になってしまっていることだ。
   私たち日本人が海外の人と聞けば、「海外では自主的に発言をしなければ隅に置かれるので、海外の人は自発的に発言をすることが多い」というイメージを抱きやすい。それが本当かどうかは私は分らないし、その海外の人、海外と聞いて日本人がイメージをする国は欧米、どちらかといえばアメリカであると私は推測する。もし仮にそのイメージ通りの留学生(この場合、様々な国から日本に訪れる学生)だとしても、実際のところ、慣れない語学で何ら臆することなく他人に話しかけつづけることは容易ではない。ましてやそれが見慣れぬ土地や人なら尚更である。それならば、同じ日本に来ていて、且つ言語だけではなく境遇も似ている者同士の方が話をしやすい、と考える。もしくは無意識にそう思うのはごく自然である。それはある特定の出身や国、ましてや人種や民族性でもない。ヒトの本能的な何かがそうさせるのだ。
   では交流の場を設けている立場、日本人の学生はどうか。もちろん語学向上や多文化、異国の考えに一目みよう、触れようと猛威を振う志高き学生もいる。しかし、それもごく僅かである。また、先ほど言った海外に対する偏見と言い換えても良いイメージは時に私たちの足元をすくい、留まらせる。こちらは民族的か歴史か文化かは分らないが、人や物事に対して敏感に反応しやすい日本人は相手の行動に対してそれと同様の反応を返す傾向が多い。その結果、留学生交流会であるのにも関わらず、お互いがお互いの出方を窺っている状態に陥りやすい。
   私はこれは私の中で最も的を射た問題だと考える。現に留学している私が感じることでもあり、もしこれを改善できるならば、今後の良い人間関係を築く上で、もしくは自分にとってよりよい成長が出来るかもしれないからだ。
   留学以前、私は様々な学内で行われていたボランティア活動や交流会に参加したことがある。そこで様々な事情をもった留学生達と話をした時にも、彼らは同じことを言っていた。現地での交友関係が希薄であり、自分がここにいる意味を見いだせなくなり、寮から学校までの範囲でしか行動をしていない、と。当時、私は自国から離れたこと、異文化の違いからくるストレスによったもの、つまり、その人自身の心の内側の問題だと考えていた。しかし、留学している今そうではないと気付く。
   これは当たり前だが、留学先はやはり自国とは違ったシステムで動いており、またそこに住む人も無意識のうちにそれに寄り添う形で行動している。また、知らず知らずのうちにその行動に合うように、考えを述べたり、意見を作ったりする部分がある。また、その無意識で私たちは互いにその感覚を共有したり、押し付け合いをしている。例えば、最近の言葉ならば、会話の初めに「いや、違うんですよ、」と無意識で言ってしまったりなどだ。それ自体に意味はなくても、なんとなくで言ってしまう。気付いた時にはもう口癖のようになっていたりする。つまり、自分から発したことであるのに相手に説明を促されたときに一瞬、はっとなったり、考えこんでしまった経験はないだろうか。私が言いたいのはこの感覚のことだ。留学生のような、いわゆるこの国にきた新参者からすれば「何が違うのだろう?」とそこに考えの重点を置かれても仕方がない。 
   実際の他の例として、宗教である。あるキリスト教の人は毎週日曜日に集会に参加するというそうだ。その行動もとい習慣はその人が小さい頃から行ってきており、みんなやっているものだと。実際は毎回行かなくても良いのだがその人は必ず行う。理由はやらないよりもやった方が良いから、ということだ。私はキリスト教信者ではないからこの感覚は分らない。私は一人しか通ることの出来ないような通路で反対方向から人が来た場合に、例え先に通っていたとしても道を譲ってしまう。譲ったからといって確実なメリットがあるわけでもないのにしてしまう行動のように、何となく行ったら良さそうな行動があり、またそれは国や文化によっては理解されがたいことであったり、時にはお下劣!といわれることもあるということだ。
   留学をしているということで様々なことに対して敏感になっている状態に人によってはそういった事が外圧として加わるのだ。寂しくて実家に帰りたいというその人自身から沸き起こる内側からの内圧、無意識による外から受ける外圧によってメンタルが弱くなるのも理解できる。だからこそ、留学生は留学生同士でいることが余計に楽に感じるのかもしれない。
 けれども、今迄の自分の何かを成長させるために留学という道を選んだのであれば、それなりの覚悟を要求されるのも仕方がないものといえる。私は留学している学生はこんなにつらい思いをしているから是非助けてあげましょうと言いたいわけではない。ただそういった状況を理解した上での企画や交流の場を作ることが可能であるならば、より一層交流が深まるのではないかと考える。
   繰り返しになるが、本当に自分がこれまで当たり前だと感じていたことは他の人にとっては当たり前ではないということを痛感している。では正しいことを決める時は何によりすがって判断をするべきなのだろうか。死刑制度は廃止すべきか否か。麻薬を売ることで生計を立て住民の生活を安全にしている市長に対して称賛するべきか否か。このような大きなことでなくとも、何かを自分で決める際に私は少なくとも自分の考えや意見が全て正しいとは限らないと考えるようになった。だからこそ他人の意見をうわべでなく、受け入れようと努力をしている。
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