卒業生の活躍
2019.09.02|最終更新日:2021.12.09|

<アメリカへ移住した卒業生> [前編]「大学は社会に挑戦するところ」 ~留学をきっかけに大学改革の道へ~

<アメリカへ移住した卒業生> [前編]「大学は社会に挑戦するところ」 ~留学をきっかけに大学改革の道へ~
本田 寛輔
University of Maine at Augusta(メイン州立大学アーガスタ校)
Director of Institutional Research and Assessment(IR・学習成果アセスメント室長)
[国際経済学部 国際経営学科(現在の経済学部 経営専攻)1998年3月卒業]
宮城県出身。大学の寮生活を経てロンドン大学SOASへ留学。2012年12月にニューヨーク州立大学アルバニー校で高等教育政策、大学運営の博士号を取得。現在は妻と4歳の息子と共にメイン州の自然を楽しみながら充実した生活を送っている。
目次

    留学を見据えての大学選び

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    幼いころは宮城の大自然のなかでのびのびと育ちました。同時に、周囲の大人たちは「いろいろな面で都会のほうが進んでいる」と言っていました。それで私も都会に対して劣等感があり、「大学では東京に出よう」と考えていました。高校生の頃から「大学入学後は絶対に海外留学する」と心に決めていたところ、ふとしたきっかけでアメリカの自己啓発本を読み、「自分の好きなことをやれ」という哲学に強く影響を受けました。また、私の両親は小学校の教員で、今振り返ると本当に生意気な考え方なのですが、「公務員は守りの人生。"安定"なんて甘えだ」と感じていました。

    親への反発心が盛んな私は経営学を学び、国際的に働きたいと考え、海外と繋がりのある大学を探しました。90年代初期に「国際経営」の学部がある大学は3校しかなく、麗澤大学は留学先と単位交換ができ、留学しても4年間で卒業できることを知りました。これが入学の大きな決め手にもなりました。また、教授陣は実務経験のある方が多いのも魅力の一つでした。たとえば、私がゼミで教わった大場裕之教授も、以前は大手の自動車会社で勤務されたことがあり、実務家教員の一人でした。

    価値観が革新的に変わった大学時代

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    麗澤大学では、学生寮で最初の1年半を過ごしました。私以外にも多くの友人が留学を目指しており、海外への関心や日本社会に対する疑問について語り合い、熱意を共に分かち合うことができました。また、当時から寮ではドイツや台湾などからの留学生と一緒に生活していたので、海外に対しての距離感はありませんでした。

    留学先は寮の先輩に薦めてもらったロンドン大学SOAS(東洋アフリカ学院)に決めました。ところが、いくら心意気があってもTOEFLの点数は留学組で最低点...。担当の先生に必死にお願いして叶った留学でした。

    ロンドン大学の特色は、講義を聞いたあとに少人数のTutorialというクラスで議論することです。そこでは教授が学生に対して常に「Why」と問いかけることで、論理的に議論を展開させるよう導いてくれました。知的関心を持たせる指導に重点を置いたイギリスでの授業に感動したのと同時に、私は日本の授業に大きな違和感を覚えるように。その頃から「将来は大学改革に携わりたい」という大きな目標を持つようになったのです。

    留学を経て、すべてに全力を尽くすように

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    留学を経て知的関心を大いに刺激され、3年次から授業により真面目に取り組むようになりました。学ぶことの楽しさを実感し、授業では積極的に質問や発言が出来るようになりました。そんなある時、友人に「カンスケ、今日は〇〇先生の授業行くの?お前が行くなら面白いから、俺も行くよ。」と言われたことがあります。これは、私にとって何よりの誉め言葉で、嬉しかったのを今でも覚えています。

    当時、教鞭を執られていた永安教授(現在はご退職されています)の「経営倫理学」は、その頃の日本では先駆けの授業でした。大講義室にも関わらず、事例研究で学生に意見を問いかける形式には緊張感があり、自分の考えを組み立てる訓練になりました。余談ですが、私は現在勤務している大学で国際経営の科目を教えていますが、経営倫理の時間はついつい熱が入り、教材の量も増えてしまいます。

    ゼミ以外で強く印象に残っているのは西敏夫教授(現在はご退職されています)の授業です。日本語での大講義と英語での少人数の議論の授業と両方あり、どちらでも真摯に学生の価値観を問う姿勢に感銘しました。西先生が「大学は社会に挑戦するところですよ」と訴えかけていた姿は今でも鮮明に覚えており、私の大学改革に対する想いとして活き続けています。そして、博士課程の出願では推薦状を書いていただきました。

    また、中野千秋教授の授業でマックス・ウェーバーが取り上げられていたのを覚えていますが、当時はあまり深く理解していませんでした。それが、アメリカの博士課程の組織論で改めてウェーバーを勉強し直すことになったときは驚きました。私が博士論文の調査にあたり、 中野先生に模擬インタビューをお願いしたところ、10年以上経っているのに私のことをよく覚えてくださっていて、本当に嬉しかったです。 麗澤大学は小規模な環境だからこそ、人とのつながりを大切にする文化があり、とても感謝しています。

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    ここまでの話からは勉強ばかりした優秀な人と思われてしまうかもしれませんが、そんなことはありません(笑)。3年次の夏休みには、父の知り合いを通じて愛媛県の魚島のお寺で修行という名の掃除をし、1ヶ月ほどを過ごしました。友人の浅見君とは江戸川でカヤック楽しみました。カヤックがひっくり返ったときに、水中で息を止めながらプロペラのようにオールを回して元の状態に戻す...なんてこともよい思い出です。また、古沢君とは手賀沼のハーフ・マラソンを走り、寮で隣の部屋だった橋本君とは風呂掃除から料理、そして東京の下町観光に出掛けました。とにかく楽しい学生生活でした。ここで男友達の名前しか出てこないのは、女の子にモテなかったからです(苦笑)。

    就職活動では「大学を改革する」仕事がなかなか見つからずに苦戦しました。当時は大学職員という職業が頭に思い浮かばず、大学経営のコンサルティング業務を探していました。並行して、ある企業にインターンシップの後に採用のお誘いも受けたのですが、自分のやりたい道を模索したいという理由でお断りしました。もちろん、先が見えずに不安ではありましたが、最終的には小さな大学経営の情報会社に就職しました。その後は修士課程への進学を希望し、退職します。

    当時、アメリカ帰りの諸星裕副学長がいるという理由で桜美林大学大学院に進学しました。
    修士号取得後、日本のある大学で職員として約3年間勤め、2005年からアメリカのニューヨーク州アルバニーにて博士課程に進みました。博士号を取得後、メイン州に移り、現在の仕事に就いています。

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